●●●

TOP

病は克服できる

幸福のプレゼント

復興への道

愛ある故に

入会案内


●―あきらめの境地―

                                     平成26年10月4日目次に戻る

 こんにちは。すっかり日の暮れるのが早くなってきた昨今です。
 この日も会場は、その名も誉れ、甲州屋さん。
 午後5時から開宴となっていますが、実は時間通りにぴったりと全員がそろうことはそれほどありません。別に時間にだらしないわけではなく、それぞれの事情にあわせ、何時に来て何時に帰ろうと自由というのが自然会の流儀。
 ただし、スピーチだけは必ずしていっていただきます。そして、ほかの人がスピーチしているときは黙って聴くのがルール。

 この日は会長が一番乗りで、店のご主人と何やら楽しそうに談話していました。
 そのうち、一人一人と会員の皆さんが集まってきて話に加わります。
 店は貸し切りではないので、8時ころまでは、ほかのお客さんもいらっしゃいました。
 ほっこりした、いい雰囲気です。

 いつものメンバーが揃い、甲州屋さん特製の料理がテーブルに並びました。
 自然会の開幕です。

 会長「諦観っていう言葉があるよね。簡単に言うとあきらめること。こいつはもう駄目だとあきらめる。だけどあきらめというのは、明らかに見るってことでもある。明らかな目で見るから『明ら目』」

 それって駄洒落? 駄洒落のようでいて、深い言葉でもありますね。

 ということで、今日のキーワードはずばり「諦観(ていかん)」。
 諦観というのはあまり聞き慣れない言葉ですが、『広辞苑』には、
 1 あきらかにみること。つまびらかにみること。
 2 あきらめること。
 とあります。ご参考までに。

 会長「例えば、夫婦のあいだにも諦観というのはある。悪い意味で言えばあきめもあるけど、いい意味で言えばこの人でいいんだっていう見極めがついたということでもある。見極めたんだから、この人を育てようって気持ちにもなれる。
 あきらめたからこのままでいい、いや、だけどこのままじゃいけない。もっと夫を男にしてやろうと思う。それも諦観ってことだね」

 夫婦で参加されている会員さん、単身で来ているけど既婚者の会員さん、思わず話に引き込まれます。
 ふつう、あきらめてしまったら、そこで終わりですよね。だけど、会長の話によれば、本当の諦観というのはそういうものではないとのこと。

 会長「あきらめて見るっていうことは、その人を認めるということでもある。もう、こいつはダメだからしょうがないって諦めるのは諦観とは言わない。
 認めてあげてなんとかしてあげようという所から生まれるのが愛。深い愛というのは受け入れてあげるってことなんですよ」

 会長「ところがね、受け入れるってことは実は見捨てるってことと同じなんです。
厳しくしなければならないんです。
 受け入れと見捨てるは一緒。ただ甘やかすのを受け入れとは言わない。厳しくするのが受け入れるってこと」

 ヒロミツさん「厳しくても、相手を理解してあげれば、感謝に変わりますよね。あきらめと理解するということはまったく同じだと思うんですよね」

 会長「理解すると慈しんじゃって、慈悲の心になって甘やかしちゃう。それは愛とは言わない。難しいところだね。
 それを厳しくすると大抵恨まれます。10年くらい経ってから初めて分かってもらえる。下手すりゃ、死んでからも分かってもらえない」

 これ、よく分かります。厳しくするって、よほどの愛がないとできないことですね。母親が涙を流しながら子を叱る。愛がなければできません。
 恨まれるのを覚悟で厳しくする。それが愛。

 いやー、諦観っていう一言だけでこれだけ話が広がる。これが自然会の真骨頂です。今月の合言葉は「諦観してる?」でいきましょう(笑)。

←前月の東京「音羽村だより」
←前月の京都「爽やか会」報告
同月の京都「爽やか会」報告
目次に戻る
このページの最初に戻る
次月の東京「音羽村だより」→