季節はいつの間にか春。例年ならお花見の時期でしたが、今年の桜は早く、参加者を迎えたのは江戸川公園の葉桜でした。
会場となる甲州屋さんは、この江戸川公園のすぐそばにあるお蕎麦屋さんです。
さて、春先は、ウツ状態になる人も多くなります。東京支部には「ウツ三兄弟」なる元ウツ病のトリオがいますが、甲州屋さんのご主人、村長ことキヨマサさんも最近、ちょっぴりウツ気味なのだとか。
会長「ウツは感染(うつ)るの!」
早くも会長のダジャレが!
会長「ガキの頃ね、一人きりで明日どうやって生きていこうか懸命だった。飯がないからどこかであさらなあかん。あれウツじゃできない。ウツだったら死んじゃう。飯を探し歩いて生きようとしてるんだね」
水野さん「会長の時代は必死でしたよね」
会長「そういう意味ではウツって贅沢なのかな。必死で生きていたらかからないでしょう。村長のは気のせい。ウツですって自己申告する人はウツじゃない」
これには、村長さんも苦笑い。
その後、しばし、冗談交じりの四方山噺が続いた後、一時、会場の雰囲気を引き締めたのは、村長さんの一言でした。
「今でも覚えているんですけどね。私が子供の頃、長岡空襲があったんです」
そう言って村長さんが店の奥から持ってきたのは、『わたしたちの証言 越路町民の明治・大正・昭和』という一冊(越路町は、現在合併して長岡市の一部)。庶民の手によって綴られた戦災の証言集です。決して上製ではありませんが、手作り感のある冊子には、貴重な証言がぎっしり詰められています。
昭和20(1944)年8月1日、新潟県長岡市は深夜から米軍による大空襲を受けました。
この空襲により、1445名(一説に1482名)が命を落とし、被災者は6万人以上にのぼりました。
村長さんのたってのお願いで、会長がこの本の朗読を始めました。一人の男性による生々しい空襲の体験談です。
長岡の町に雨あられのように降り注がれた焼夷弾。町は焼き尽くされました。
会長「これ読んで分かるのは、町には若い男はいなかった。老人や子供しかいない。そんなとこに爆弾落とすかね。抵抗する人間がいないのに」
甲州屋さんの女将、和子さんが、
「よかったねえ。読んでもらってウツも治ったでしょ」
村長さんも感激ひとしおのようです。
会長「もし、沖縄戦で敗れた時戦争を止めていれば、こんな被害は受けなかった。せめて長岡空襲のあった8月1日の段階に止めていれば、広島、長崎の原爆はなかった。油揚げさらいにきたソ連が日本兵60万人も連行してシベリア抑留することはなかった」
水野さん「歴史にイフはないと言いますけど、もっと早く戦争が終わっていれば」
会長「タイミングって大事だね。しかし、作戦を決めるのは、実際戦場に行かない者ばかり。自分は死なないから、地図見て、ここを攻めろ、あそこを攻めろって将棋の歩を動かすみたいに決めて、負けて何万人も死んでるのに、今度は銀で攻めろ、というようなゲーム感覚。ちょっと勝ったりすると、勲章もらって神社に祭り上げられたりする。バカヤローだね」
三谷さん「今の北朝鮮によく似ている」
会長「70年前の日本ですよ」
ここで、岩本さんが仕事のために帰る時間になりました。
岩本さん「今日は飲みたかったけど、仕事があるのでお先に失礼します」
会長「岩ちゃんは、不器用で狡くないからいい。決して人をくささない。だから助けたくなる」
岩本さんは名残惜しそうに会場をあとにしました。また来月会いましょう。
会場には、まだ、会長の朗読の余韻が残っていました。
水野さん「村長は疎開はしなかった?」
村長「疎開はしなかった」
会長「ああそうかい」
またまた、会長のダジャレが!
会長「村長はりこうぶらないからいい。どこかで勉強したようなことを言っちゃダメ。頭で考えない。どう生きているかが大事なの。何か人の役に立とうとしているから進歩がある。スローガンばかり言ってもしょうがない」
最後はキッチリ締めくくりました。
さて、そろそろ甲州屋さんも明日の準備があるのでお開きの時間。また、次回にお会いしましょう。
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