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病は克服できる


幸福のプレゼント


コミュニケーションの輪


愛ある故に




人には必ず出会いがあり
やがて別離がやって来る
楽しい付き合いだと 楽しい想いが残る
出会った時だけが生きているのではない
別れた後も全てがその人の心の中に残る
愛に満ちた素的な関係だと その温もりは
永遠にお互いの魂の中に宿る
人は人との繋がりを切ってはならない
千切れた心と心は なかなか結びつかない
人間関係を崩壊させてはならない
人間は自然を破壊してはならない
必ず自然の大逆襲に遭う
広大な自然に融和して 素直に 謙虚に
清々しく生きてゆかねばならない

●復興への道  自然会島原奮戦記

       ●原点…・・・今、何故島原なのか
       ●励ます会・・・長き道程の第一歩
      ●親子クリスマス会・・・感動の夜は更けて
      ●普賢花・島原慕情・・・唄を通じて復興支援を
      ●復興ビル創設・・・自立復興の為のパイプ役に
      ●普賢復興支援コンサート・・・皆んなで救おう、被災の地
      ●皆の心を一つに・・・自然との共存とは何か
    

 原点…今、何故島原なのか

 地震、津波、水害、テロ…未曾有の天災、人災に次々見舞われ、その都度世界は驚愕し、おののきに包まれます。TVやインターネットを通じて地球の真裏からでも悲惨な映像が連日届けられ、新たな災害が過去の災害の記憶を人々からかき消していく…。当事者は痛みも苦悩も、何も終わっていなくても。

 今から遡ること十余年、私たちは原点とも言うべき災害の復興支援に乗り出そうとしていました。
 雲仙普賢岳…平成3年6月3日発生した大火砕流により43名の犠牲者を出し、その後も相次ぐ火砕流、土石流など、甚大な被害を島原半島に与えました。 酪農業、観光業などの主要産業は大打撃を蒙り、いつ止むのかわからぬこの噴火災害に、地域経済は長期に渡り停滞しきったままでした。
 私たちコミュニティネットワーク自然会では、平成3年10月より現地に常駐者を置き、地元の人々を励まし、一人一人に自立復興を促し、皆が手を繋ぎ、活性化に向かって歩みだすパイプ役として、お手伝いをして参りました。
 その活動は普賢岳の火山活動がほほ終息した後も続き、延べ10年にも及びました。
 ここにその経緯を極簡単にまとめ、皆様にお読みいただきたいと思います。
 詳しくお知りになりたいかたは書籍「ホント八百」東隆明著、もしくはブルーレイをご覧下さい。

 或る日ニュースで灰の降る中をヘルメットを被って登校する小学生が映し出されたのをじっと見ていた東会長の長男、隆道君(当時小ニ)が「ボクのお小遣いを全部、大野木場小学校のお友達に持っていってあげていい?」 と言い出しました。
 これをきっかけにして「島原って何処?」と地図を広げ、友人知人も親戚も居ない地の復興支援に乗り出したのです。
 常々月例会などを通じて、自分のことより人の幸福を考えて行動できる人にならなければならない、と学んでいました。それは着実に成果をあげ、 皆、家庭は円満になり、職場や友人からも信頼される人へと変わっていきました。身近な人の事が出来たら、今度はエリアを広げ、もっと遠い地域にすむ人の為にも働ける人にならなければ、と学んでいた折も折のことでした。

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 励ます会〜 長き道程の第一歩

●平成3年10月、9名の仲間と共に島原に乗り込んだ東隆明会長は、当時の鐘ヶ江市長と会談、心の復興に尽力することを約束します。

●大野木場小学校慰問
 東隆道君本人の強い希望で当時の仮設校舎を訪れ、大
事に貯め続けてきたお小遣いを生徒代表に手渡し「頑張って下さい」「ありがとう」と笑顔で握手を交わしました。

●励ます会
 四ヶ月もの間体育館で避難生活を余儀なくされていた被
災者の方々ですが、仮設住宅が出来る迄の間、観光ホテ

校長先生、教頭先生と歓談する東親子
 ▲校長先生、教頭先生と歓談する東親子

ルが受け入れるよう取り計らわれ、次々分宿を始めていました。そのホテルの大広間を貸しきり、「励ます会」と銘打ち、寄宿中の皆さんをお招きして毎夜大宴会を催します。
 …とはいえ招かれる側にも、最初は戸惑いや警戒心もあったようです。それはそうでしょう。彼らにしてみれば、私たちは突然やって来た見ず知らずの人間なのですから。
  ここからは前述の書籍「ホント八百」から抜粋して、お伝えしましょう。10月7日ホテル南風楼「安中地区被災者を励ます会」での東会長の開宴のスピーチからです。

 「……皆さん、私達の励ます会には、マスコミは一切入れてません。市や国の人も入ってません。皆さんだけの慰労会なんです。聞けば、皆んなで酒を汲み交わす事も、談笑する事もなかった四カ月です。暗く部屋に籠もっていても亡くなられた人は帰って来ません。焼けて、流された家は建ち直りません。喪中は終わった。今日で終わりにしましょう。飲みましょう。言いたい事を言いたい放題言いましょう。今夜は思いっ切り語り合って、大いに笑い、大いに泣き、腹の中のしこりを吐いてしまいましょう。そして、明日からは元気に、誰にも遠慮のない、思い通りの人生を歩んで頂きたいと思います。なりたくてなった被災者ではない。遠慮して小さくなって生活する必要は何処にもない。明日から復興の第一歩を確実に踏み出して頂きたいと思います。後でゆっくり皆さんのお話も聞かせて貰います。先ずは腹拵えです。遠慮なくやって下さい」 あちこちで、ビールの栓が勢い良く抜かれる音が聞こえ、宴席が始まった。

九十九ホテルでの励ます会の様子
▲九十九ホテルで。楽しそうに唄って踊る被災者の方々。

 始めは遠慮がちにコップを差し出していた人達も、飲むに連れ食べるに連れ、丸くなっていた背も伸び、白い歯が見られるようになって来た。あちこちで笑い声が聞かれ出した。
 私も各テーブルを回った。
 どのテーブルに行っても、待ってたように酒を勧められる。此方が酌をしに行ってるのに、逆接待である。直接話をすると如何に感謝して呉れているかが分かる。

町中の被災者面してる人達とは違う。インタビュー馴れしてる人達とは違う。ホントの悲しみを持った人達である。代々護って来た家や財産である。コツコツと積み上げて来た身代である。培って来た団欒を、一瞬にして失くした心情は、その当事者しか知る由もない。
 今日初めて会った人達が、見ず知らずの私達に、此の四カ月の苦悩を洗い浚い、素直に語って呉れる。
 深い、深いぞー。此の傷を癒し、元の快適な生活に戻るには、並大抵の努力では追い付かない。当事者は勿論、応援する方も半端では駄目だ。浅い愛は却って邪魔である。
 「同情するなら金を呉れ」だ。それが現実である。復興は物・心共に必要である。私も深く、深く埋り込む決心を新たにした。

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●普賢岳の絵葉書
 被災中の受験生の為、落ち着いて勉強できる寮舎を建設してあげたい、その資金作りにと地元有志「普賢会」が作成したものです。三千部(一部千円)購入し自然会で販売しました。
 その後、寮舎は完成しましたが、ほとんど利用されませんでした。ゆっくり勉強が出来なくても、子供達が両親の元を離れたがらなかったからです。

噴火の様子を写した絵葉書

狭い仮設では家財道具すら満足に置けません。家族が肌擦れ合う暮らしですが、広い家で一人一部屋を使っていた被災前より、必然的に家族との会話が増え、それを子供達は喜んだそうです。

●島原文化会館で講演会。演題、”災害と復興”観客7名。

●地元ボランティア協議会の主唱する「特別救済立法」成立を願う署名運動に協力。三日間で3万人の署名集める。

●仮設住宅廻り。実態調査と個人面談。
 マルデンビルの一室を借り、常駐者を置き遺族や被災者の為の相談室設置。

●バザーを各地で開催。

●平成5年2月7日、島原文化会館にて『復興フォーラムの夕べ』開催。音楽と歌とトークのジョイントで、地元の太鼓
 やバンドも加わって自立復興に向けて大いに盛り上がる。

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「復興フォーラムの夕べ」の様子
 ▲イザナギバンドらと共に
 親子クリスマス会 感動の夜は更けて

 平成3年(1991)12月22日。九十九ホテル、レインボーホール。
 仮設住宅の冬は厳しい。隙間風と底冷えに耐えながら年を越さなければならない。何とか元気を取り戻し、病人を出さないようにせねばならん。一万余の人達を一堂に会して励ます場所が無い。
 子供達だ。子供達に笑顔が戻れば大人達も勇気づく。
 小学生の居る家庭を中心に「親子クリスマス会」を催す事にした。

 三日前から自然会婦人部は、夜の更けるまで一軒一軒仮設の戸を叩く。
 「何故こんな事までして頂けるんですか」とあちこちで質問される。
 「あなたならしませんか」と、聞くと「しません」と、きっぱり返事が返って来る。
 「宗教じゃないんですか」と、恐る恐る聞く。
 自分がしない事をする人は皆、不思議なのである。必ず裏がある。親切だけでこんな事が出来る筈がない。だから屹度宗教だ。信者集めの為の餌なんだ。と、思い込んでいる。
 宗教がこんな事をするか、此処迄するか! 宗教は自分の殿堂を大きくする事しか考えていないのだ。宗教は人の不幸を食いものにしてるのである。私達の行動とは正反対の仕組みなのだ。
 婦人部はめげずに木枯らしの吹く普賢の麓を、暗闇の中を、足元を確かめながら歩く。
 もし私が同じ立場であったなら、と思うと、疑られようが冷たくあしらわれようが、腹は立たない。腹が立ったら偽善者である。感謝されたいという邪念が働いているのである。

 当日 開宴一時間前。自然会スタッフは総勢四十人。フル回転の準備は完了した。
 超豪華なクリスマスツリーは、私の妻の傑作である。飾り付けスタッフは男子の社長連。
 妻の演出を受けながら、楽しそうに朝から働いていた。出来上がった瞬間、あちこちから溜息が出る。素晴らしいツリーである。品、格共申し分ない。
 クリスマスプレゼントは五百人分。大きな袋にギッシリ詰まって、持ち主を待っている。

 開宴三十分前。なんとホテルのフロントの前からロビー、玄関と外にまで人で溢れ、一同、嬉しい悲鳴。クリスマスソングの流れる中を親子で手を繋ぎ入場となる。参加者350名。

ごちそうがいっぱい クラッカーを打ち鳴らす子供達

 兎も角、その夜の事は生涯忘れる事はないだろう、私達も被災者の人達も。
 クリスマスソングを皆んなで何曲も合唱し、手作りのケーキを食べ、親子ゲームをし、被災の苦労と復興への意欲、家族の結束等のスピーチが、皆んなの胸を打ち、感動、感動の夜は更けてゆく……終宴。
 皆んな、あの寒い仮設住宅に帰って行った。復興への願いを込め、天井に向け打ち鳴らしたクラッカーの残骸を見ながら、私達の目は真っ赤に腫れ上がっていた。
                                        以上「ホント八百」より抜粋

 その後参加者は年々増え、平成4年参加者550人、平成5年参加者650人、 以降は開設された復興ビル内で毎年行われた。

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 普賢花・島原慕情  唄を通して普賢復興支援を

 この2曲は全国の人に聞いて頂き、口ずさんで頂くことによって島原の人達の励みになり、復興と活性の一助となるようにとの願いを込め、東会長が書き下ろし、レコード会社に働きかけ、平成5年10月全国発売の運びとなった曲です。また売上、印税、共に島原復興の為に使われました。
 「島原慕情」は故郷を出て都会で働く若者に、自分を育んだ故郷を忘れないで欲しいと願いを込め、あの宮崎康平氏の名作「島原の子守唄」を挿入して創られました。
 「普賢花」は「普賢復興支援コンサート」の一部よりその誕生の経緯をお伝えしましょう。

CDのジャケット写真


 或る日、遺族の未亡人の人達と話し合っていました。夫亡き後の苦労は地元の人には言えない。すれ違い様に「保険金がいっぱい入って良かったな」と言われた事もある。久しぶりの友人と道で会い、慰められ、励まされ、勇気づけられたと思ったら、それを見ていた人が「あそこの嫁女は夫が死んで一年も経たんのに、もう他の男とイチャイチャしちょった」なんて言われた事もある。
 「死にたかと思った事がなんぼあったかね――。あの人の後を追って普賢さんに飛び込んじゃろか………でも子供がおるとじゃ、小さか子がおるとじゃ……頑張らんば」
私は胸が詰まって………言って上げたい事がいっぱい有るのに言葉が出て来ない。

 観光の町、島原を取り戻す為に全国にキャンペーンを張る事を決意した時、その目玉として、この未亡人達の事を歌にしようと思いつきました。
或る日の夕刻、仮眠を取っていた私の夢枕に、噴煙を上げる普賢岳の火口に天女の舞う姿を見ました。
無表情で優雅に舞う天女は、踊り終わると、じっと私を見続けた処で目が醒めました。
 八方手を尽くし、昔の文献を調べ、遂に天女の正体を突き止めました。
木花咲耶媛………二度の大噴火で静まる事を知らない富士山に、見を投げて鎮めようとした人です。
 媛が身を投げた途端、第三回目の噴火が起きて、山が鎮まったという伝説です。
 ボコボコで今の普賢岳の様に醜かった富士山が、この噴火で今の様に綺麗になったという事です。夢枕の天女が飛び込まなかったのは何故か………
 自分達でやれ!心が一つになれと云ってるのであろうか………
 それが出来たら鎮めてやる、と云っているのであろうか………

 嘆いてばかりはいられない。生きねば。
 私とあなたの大事な大事な宝、この子の為に…。
 私は普賢に咲く花のように、目立たなくても逞しく、一生懸命生きて行きます。
 ……この子と共に……。    歌詞を見る

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 復興ビル創設   自立復興を目指し、人々のパイプ役に
ビル全景
▲復興ビル全景


 平成5年4月、島原市中組町に復興ビルを開設。各種イベントに対応出来るコミュニティサロン(1F)と非営利活動なら無料で使用できる多目的ホール(2F)を、地域活性や復興活動に必要な話し合いの場として提供し続けます。 開設の翌年1月、地元紙に掲載された東会長のメッセージをご紹介しましょう。


 復興は皆の心・魂にある

 新しき年を迎え、皆様の健康と復興に向けてのより一層の努力と成果を願い、またその為の応援や助力を復興ビル一同、全力を挙げて頑張る所存です。

 大火砕流以来、真綿で締め付けられる様な苦悩と焦燥の中で、手足をバタつかせながら活路を見出そうと頑張ってこられた皆さん、今年こそ行動の年です。 被害の度合いや職業の違いを比較することなく、個人差を乗り越え、皆が手を繋ぎ一緒に島原全体の復興の為に起ち上がらなければなりません。
 先ず個人復興。住居の決断と職業の選択。成り行きに任せていても徒に時が経つ。
 動かねばならない。動いた後に結果が出、動かなければ何も始まらない。
 個人の動きと共に全体を考える。皆と意見を交換する。皆とコミュニケーションの中で無駄が省ける。独断や偏見が是正される。人の意見を聴かない人や自分の利だけを追いかける人は一時的には成功することはあっても必ず末路は破滅する。共存共栄出来ない人に真の復興も幸福もない。皆の町である。皆の島原である。
 人の中傷や批判はもうやめよう。喧嘩も止めよう。人と勝負するのも止めよう。良い結果は何も出ない。そこには醜い自分の顔がある。復興が遅れる。復興の原点は人の心にある。政治家や宗教家や学者や事業家に任せきれるモノではない。皆の心・魂にある。
 遅い仕事は誰でも出来る。一日も早く復興して、これから各地で多発する天災・人災の良き範とならなければならない。島原の復興が、後に日本を救い、世界を救う事に役立つよう頑張らなければならない。島原は注目されているのです。何をすべきかを話に来て下さい。答えを出す為には、先ず歩く事から。        ……「しまばら通信」平成6年1月3日号……

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 普賢復興支援コンサート 皆んなで救おう、被災の地

 この普賢復興支援コンサートは平成6年4月4日、大阪国際交流センターを皮切りに全国主要都市37会場で行われました。(一部会場を除き入場無料)
 「普賢花」「島原慕情」の他、「ふるさと」など心を揺さぶる音楽を織り交ぜながら、島原の現状を知ってもらい、皆で扶けよう、と訴えたのです。
 そして危険区域にさえ入らなければ島原は安全です。皆さん遊びに来て下さい、と観光島原をPRしました。

コンサートのもよう
 ▲舞台背景は普賢岳を模した絹布。

 開催地のマスコミ各社より後援を受け、度々新聞やTVでも紹介され、また多くの人の尽力があったにも関わらず、入場者の少ない会場もありましたが、その反響は大きく熱いものでした。

コンサート冒頭のスピーチからご紹介しましょう。

 「昭和二十年、大戦に敗れた日本は焦土の中から、復興を目指して立ち上がった。道路が整備され、ビルが建ち、目覚ましい発展を遂げていった。そして今、世界一の経済大国にのし上がったのである。然し、物理、物理を追いかけた結果、多くのものを失くしてしまった。
 一番大事な愛を、心を置き去りにして、物理社会を作り上げていったのである。それが今、大きなツケとなって我々を襲いつつある。
 夫が妻を、妻が夫を、保険金目当てに殺害する。母が子を折檻して殺してしまう。勉強しろと云われ、カッとなって親を刺し殺す。一寸した事で簡単に一番大事な人迄殺してしまう。
 学校ではいじめが流行り、家庭でのふれ合いのない、行き場のなくなった子は、自らの命を絶ってしまう。
 昔からあった事ではある。然し、このような惨事がマスコミを通じて日常茶飯事、家庭に飛び込んで来るのである。一番怖いのはその痛ましい映像を箸の手も止めず、美味しく食事をしているお茶の間の神経である。どんどん、どんどん麻痺して行く……。どんどん、どんどん自分の事しか考えなくなって行く。自分だけ良ければ良いのか、自分だけ幸せになりたいのか……。
 決して自分だけ幸福になる事は出来ない。物理を追いかけても幸福になる事は出来ない。幸福とは、愛し、愛される人がいっぱい居る事である。
 自分の事しか考えない人は愛せないだろう。人を疑ってばかりいる人は愛せないだろう。それは醜い、汚い心だからだ。親切にされても「これにはきっと裏がある。信じないぞ」…悲しい心である。人まで自分と同じだと思い込んでしまう。
 何をやっても上手く行かないのは、自分の為にやっているからだ。人の為にすれば必ず愛され、そのうち我が身に返ってくる。それが本当の財産である。 素的な人とは、いつも人の事を想い、いつも人の為に動ける人の事である。
 今、地球は危機に瀕している。島原だけではない。国内のあちこちで、世界の至る所で天災・人災が襲いつつある。
 物理を追いかけ、我が身の為に生き、我が家庭のみに捉われ、我が地域のみに働き、我が国の存続だけを考え―――全体の調和を、人類全てが家族である事を、人を愛する事を、真実は唯一つである事を忘れてしまった結果である。今こそ反省して、改めなければならない。我々一人一人が!
 家屋や道路の復興は何時でも出来る。一番大切なのは心の復興である。今、皆んなが復興しなければならない時に来ている。さもなければ、また大きな戦争に突入してしまう。また大きな天災に見舞われる。復興はその人、その人の心の中にある。人を愛せば愛される。気持ちを合わせて皆が力を出せば難しく思われた事も簡単に出来る。皆が明るく前向きに動けば心は一つになり、前にも増して楽しい家庭作り、豊かな町作りが出来る。
 手を繋ごう…そして太陽の様に大きく光輝く町にしよう。
                     ……普賢復興支援コンサートより……

くす玉を割ってゴールするようす
地元の人々の出迎えを受け、ゴール!

  2ヶ月にも及ぶコンサート・ロードを無事終え、 あの忌まわしい火砕流のあった日から丸三年目の平成6年6月3日、最終地、島原にゴール。
  その夜、島原文化会館で『復興と追悼の夕べ』と題し、37会場目のコンサート(観客七百余名)。全国から寄せられた励ましの言葉や各会場で集めた寄付金、物販売上金を舞台上で島原市助役に手渡し。その後、募金は遺族に、物販売上金は島原市と深江町の小中学校に均等に分け、贈られました。

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 皆の心を一つに 自然との共存とは何か

 自然会の島原復興活動の一部始終をここまで読んでこられて、余程の大金持ちか大金持ちのスポンサーが居るように思われたかもしれませんが、残念ながらそうではありません。
 東会長は個人の資産をつぎ込みきり、それでも億を超える借金を抱え込みました。また決して強制はできませんが、自ら志を示して下さった会員さんも何人かおり、その方々も大変貧乏になりました。
 しかし大きな、何にも替え難い、尊い財産が残ったことも事実です。

 思いがけない災難にあった時、家族は結束し、その力を何倍にもして、試練を乗り越えようとします。そして見事に乗り越えたとき、より強い絆で結ばれます。
 東会長は一貫してこう説き続けてきました。
 島原にあっては争いを止め、我と我が身優先の考えを止め、手を繋ぎ、心を一つにして自分達の力で乗り越えよう、その為にはコミュニケーションが最も必要なことだと。
 全国の人には、人の災難を他人事として放っておけば、やがて我が身にもやってくる。明日は我が身なのだから、皆で扶けよう。
 人間は皆家族なのだ。

 自然との本当の意味での共存とは何か。
 それをこの災害は教えようとしてくれたのかも知れません。

 もっともっと多くのエピソードがありますが、スペースが有りません。
長々とお付き合い頂きましたが、「やった、やった」とひけらかす為では勿論ありません。
 再三申し上げております通り、この島原での貴重な体験がノウハウとして生かされ、世界の範となり…現在、止めども無く襲いかかって来ている天災、人災からの復興に役立てられたならばと願うからです。
 
 まず個人復興、あなた自身を鍛え、その力で身近な大事な人を、 そしてそれが出来たら、地域や国の為にと、そのエリアを広げていく。自然会はそんな次世代を担ってくれる素的な人をどんどん育成し、ネットワークし、拡めていきたいのです。
人類全てが扶け合いの心を持てば、成し遂げられない復興は有りません。必ずや平和で豊かな自然と共存する社会を築くことが出来ます。
 あなたも是非ご参加下さい。





その後も復興ビルは地元の人々のパイプ役を務め続け、平成13年6月3日、その幕を下ろした。

緑の普賢岳

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